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Michael  Ryan  Flatley

Biography - Part 3

riverdance from GOLD シングルがアイリッシュ・トップ10に18週とどまり、コンテスト優勝曲も収められたビデオRiverdance for Rwandaの売れ行きも好調で、ヨーロッパを中心に、あの"Riverdance"をもっと見たいという気運が高まった。芸術的価値のみならず商業的価値も高いと評価された"Riverdance"は、アイリッシュダンスのパートの振付をMichaelが担当し、フラメンコやアメリカン・タップなど他の演目も加えた2時間のショー"Riverdance - The Show"として生まれ変わった。1995年2月9日、ダブリン、ポイント・シアターでオープンし、当初は2週間の公演のはずが、チケットはたちまち売り切れて6週間にまで延長された。各メディアから賞賛を受け、ロンドン、アポロ・シアターでも大成功を収めた。

「スペインやロシアのナンバーを盛り込むのは、僕は賛成していなかった。でも結局それは効果的で大当たりした」

そして1995年9月、かねてから制作側と意見を異にしていたMichaelは、とうとう契約延長の交渉で壁にぶつかる。いずれは丸く収まるだろうと楽観していたMichaelは、契約書も出演料もないまま12週間踊り続けていたが、2度目のロンドン公演開幕(10月3日)の2日前にとうとう決裂し、弁護士を通して解雇の宣告を受けたのである。Michael自身の言葉によると、主な争点は3つ。マスコミと話すことを禁じられたこと。振り付けの著作権を要求されたこと。そして最も大きかった問題は、制作側がMichaelのダンスについて、100%の指揮権(artistic control)を主張したことだった。ますます知名度が上がり、自分の創作物について権利を持つのは当然と考えていたMichaelにとって、それらはどうしても譲るわけにはいかないものだった。最終的に"Riverdance"制作陣は、たとえ主役であろうと、キャストに作品の権利を渡すわけにはいかないという理由で苦渋の決断を下したのである。双方にとって大きなダメージとなったこの事件は様々な報道がなされ、その影響は長く尾を引くことになる。

「僕は全精力をショーの創作ために費やした。その実体を知らないまま」

"Riverdance"公演中、週に7万5千ドル(約940万円、2002年5月換算)の報酬と喝采に包まれる日々という表面的な華やかさの裏で、Michaelはいくつかの代償を払わなければならなかった。かつてこれほど速く過酷なダンスを長時間踊った例がなく、どれほどの肉体疲労にさいなまれるか、誰にも予測はできなかった。膝とつま先に激しい痛みを抱え、痛み止めの注射を打ちながらステージに立っていたのだ。そしてBeataとの結婚生活にも大きな影を落とし始めていた。彼女は何度もMichaelに"Riverdance"を離れてビバリーヒルズの自分の元に戻るように懇願したが、ショーを放棄することは彼にはできなかった。二人は1997年11月に離婚している。

「全てをやめて結婚生活に戻る方が、よっぽど男らしかっただろう。人生では直面しなければならない大事な局面があるものだ。これをやるのが自分の天性なんだ。僕はやらなければならなかったし、どうしようもなかったんだ」

train from making of LOTD 解雇宣告を受けた日の夜、失意のどん底にあったMichaelは父親に電話をした。「おまえが"Riverdance"を作ったことはみんなわかっている。もう一つショーを作ればいい。自分を信じろ」父の言葉は彼を励ました。その11日後、"Riverdance"で踊っていた時に浮かんだアイデアを思い出してベッドから起きあがった。それがPlanet Irelandになる。そして猛然と新しいショーの企画を練り始める。ミュージシャンや照明、音響の技術者など、人材を集めるのは容易ではなかった。RTEと関係が深い"Riverdance"と袂を分けたMichaelと関わることは、今後の活動に不利になると誰もが考え、彼らを説得することから始めなければならなかったからだ。それでもスタッフは徐々に集まり、1996年3月にダンサーのオーディションを開始、4月に作曲家のRonan Hardimanが作曲を開始した。構想から初演まで数ヶ月という驚異的なスピードで、"Lord of the Dance"が誕生した。その短い間にMichaelは、長年腕を使わないように教えられてきた若いダンサーたちを再教育しなければならなかった。

「人生とは挫折の回数ではなく、挫折から這い上がる回数だ」

"Lord of the Dance"のメイキングについて、詳しいことはAir InternationalのMaking of Lord of the Danceのトランスクリプトの和訳をご覧下さい。ちょっと長いですが、LOTDが出来上がっていく過程が、Michaelと関係者の言葉で語られています。

今までに誰も成し遂げたことのない、子供の頃からの夢であった壮大なダンス・エンターテイメントの実現。全財産を投じ、自分の名前を掲げたプロジェクトであるからだけではなく、これまでに積み上げてきたことを独力で証明するために、何としても成功させる必要があった。

「僕は自分を信じ、ポジティブなことだけを信じる。できるだけネガティブなエネルギーは自分の生活に持ち込まないように心がけている。それが一番さ。何の制限もなければ、規則もない。信じれば可能だ。何でもできる。不可能なことなんてないんだ」

open from making of LOTD 1996年、6月28日〜7月1日のプレビューの後、"Lord of the Dance"は7月2日に"Riverdance"と同じダブリン、ポイント・シアターで初演を迎えた。観客は今までに見たこともないスペクタクルに、最初のナンバーから熱狂した。5回目のスタンディング・オベーションを受けた時、今までの苦労が吹き飛び、思わず涙がこみ上げてきたという。ところが観客の反応とは裏腹に、派手な演出とダンスのスタイルに対して批判を浴びせるマスコミも多かった。"Riverdance"との一件以来、すっかり「わがまま、身勝手」という評判が一部の批評家に定着していたこともあった。しかしMichaelは、ネガティブな記事はいっさい読まなかった。狂喜絶叫するファンが埋め尽くす会場の中、気に入らないと主張する批評家が一人いたとしても、気にとめる必要はない。

「ステージに出ると、音楽は響き渡り、観客は叫び、ライトは瞬き、心臓は高鳴り、汗が飛び散る。それこそがこの世で最高の気分さ!」

Michaelは"Lord of the Dance"で2年以上にわたり、チケットセールスの記録を塗りかえながら世界各地を巡演した。初めて観に来るお客ががっかりすることがないように、捻挫で足を痛めていようが、寝不足の日が続こうが、最高のステージを提供するために絶えず自分を奮い立たせ、努力を重ねた。1996年7月13日のリバプール公演の最終日、十分なウォーミングアップなしにステージに立ったMichaelは、Cry of the Celtsの途中でふくらはぎの筋肉が裂ける音を聞いた。なんと肉離れを起こした脚で、激痛をこらえながらCry of the Celtsを踊りきったそうだ。どの医者も数ヶ月は歩けないという診断を下したが、5日後の18日には全公演SOLD−OUTのマンチェスター公演がひかえていた。特別な治療師にかかり、4日間腿からくるぶしまで包帯で固めて、完治することにひたすら精神を集中した。もちろんMichaelはマンチェスターの初日のステージに立っていた。もしその日を逃していたら、今の成功はなかっただろうと後に語っている。

「出来ると信じこむように自分をごまかせば可能になるものだ。このことは、何物も僕を止めることは出来ないということを証明した。一番大事なことは、自分を信じて突き進むことだ」

1997年3月からは全米ツアー。"Riverdance"で行くことのできなかったニューヨーク、Radio City Music Hallを2週間満員御礼にした。誰よりも早く会場に入り、一番最後に会場を後にする。毎晩、機材の点検から、衣装の色、スタッフの健康状態にまで気を配った。1997年11月のオーストラリア公演ではTroupe 2の結成とトレーニングも重なり、あまりのハードスケジュールのために肺炎を悪化させていた。体の不調を押して出演していたブリスベン公演の27日、Victoryを踊って舞台裏に戻った時に、呼吸困難に陥り倒れてしまった。病院に運ばれたMichaelは、とにかくステージに立てるようにしてくれと医者に嘆願したが、数日間の入院を強いられ、残りのオーストラリア、ニュージーランド公演はキャンセルとなった。

fof from GOLD 年が明けて1998年1月イギリスに戻ったMichaelは、バーミンガム公演で心配していたファンにすっかり回復したことをアピールした。3月26日、35タップ/秒という記録で自らのギネスレコードを破り、ヨーロッパ巡演の後、5月には南アフリカ公演、6月に再びヨーロッパに戻る。(一度目の)引退を決めたMichaelは、6月26〜28日、"Lord of the Dance"誕生の地、ダブリンで最後の3ステージを踊り、その3日間のために世界中からファンがアイルランドに詰めかけた。そして7月25日、ロンドン・ハイドパークRoute of Kingsに巨大な野外ステージを組み、引退公演として"Feet of Flames"と名付けた一大イベントを25,000人の観客の前で繰り広げたのである。(Feet of Flames 1998)100人を越えるダンサーと大がかりな舞台セットで、歴史上最も大規模なダンスショーとなった。

「鳥肌が立つようなことをまず考えるんだ。それからそれを実行するのさ!」

fof2000 from GOLD 引退後、巡演中にできなかった様々なことを片づけていった。"Riverdance"との訴訟問題は無事和解。特別な援助を必要とする子供や若者を支援する複数の団体に寄付をするなど福祉活動にも力を注ぐ一方、5年間スーツケースと共にホテル暮らしをしていたMichaelは、ロンドン、アイルランド(Castlehyde)、南フランスと、次々と家を購入する。1999年6月からのフロリダDisneyworld's Epcot Center公演のために、4つめのtroupeも結成した。1999年9月、脚のコンディションも回復し、ドイツでステージ復帰を発表。2000年3月3日、ニューバージョン"Feet of Flames"ヨーロッパツアーはドイツで開幕。西ヨーロッパで400万人を動員し、ハンガリーのブダペストでは10万人を熱狂させた。7月29日、"The Millenium Tour"は北アイルランド、ベルファストで幕を閉じた。

「自分自身に挑戦し続けること。それが僕のやるべきことだ」

2001年6月6日にスタートした"Feet of Flames - The Victory Tour"は全米20都市を回り、念願のホームタウンでの公演、夢に見たNYマディソン・スクエア・ガーデンをSOLD−OUTにしての公演を果たした。ツアー最終日7月29日、ダラス公演直前に正式に引退を表明。見事に最後のステージを飾った。引退後もテレビのトークショーや映画ハリー・ポッターのワールドプレミア出席など、しばしば姿を見せては健在ぶりを示している。2001年12月11日、世界の障害を持つ子供達への人道的な援助とアイルランドのコミュニティへの貢献が認められて、Variety Club of Great Britain(病気や障害を持つ子供達を支援する世界最大規模の慈善団体、Variety Club Children's Charitiesの英国支部)のクリスマス昼食会に主賓として招かれ、その席でIrish Dancing Commissionより功労賞が贈られた。

Michaelは"follow your dreams"の哲学を一貫して唱え、実践し、クリエイター、ダンサー、振付師、プロデューサー、ディレクターという前例のないキャリアを築き上げた。そしてもう一つ特筆すべき大きな業績は、若いアイリッシュダンサー達に「自分が最もやりたいこと」で生計を立てることを可能にする、基盤を提供したことだ。彼が開拓してきた道をたどって、才能を世に示すチャンスを追い求める若者が増えるだろう。
もうステージで踊ることはないと明言したMichaelにはいまだに熱いまなざしが向けられており、世界中の多くのファンが次の作品を待ちこがれている。彼は決して創作をやめることはないということを知っているからだ。今のところ2作目のフルートCDリリースが控えており、映画の制作なども噂されている。今後はビジネスの面でも意欲的な活動が期待できそうである。
そしていつの日か、再びあのステップを私たちの前で披露してくれることを密かに願って・・・

「子供の頃から僕はダンサーだった。そしてもちろん、死ぬ日までずっとダンサーさ」

by Sue
 

pictures from "GOLD" (c) Unicorn Entertainments

SOURCES:

  • Michael Flatley GOLD マイケル・フラットレー魅力の総て!
  • Eire Apparent ドキュメンタリー「マイケル・フラットレー」
  • The Making of Lord of the Dance LOTDメイキングビデオ
  • CNN - Larry King Live (2001) インタビュー番組
  • Irish Dancing Magazine 1998年6〜11月号 www.irishdancing.com
  • Michael Flatley 公式サイト www.michaelflatley.com
  • Riverdance - a journey リバーダンスの軌跡
  • The Celtic Cafe - MIKEroCosm  Sally Howes' biography of Michael Flatley  Thanks to SallyOz and Louise.
  • Caeri's Michael Ryan Flatley
  • Zammi's YES, YES, Michael Flatley!

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